『昔、神童。今、ただの人。』
この言葉にどんな真実が隠されているのでしょうか。
私は、おおむね3つのパターンがあると考えています。
1.無関心型
親が、子供の神的才能に適切な対応をしなかった。
特にそれが芸術的な才能の場合には、
早期に適切な指導者につけないと才能が開花されないままになってしまいます。
2.自然消滅型
成長とともに、神性が失われていく。
過去の日付の曜日を瞬時に言い当てたり、素晴らしい記憶力を持っていた子供が、
大人になるにつれてその能力を失っていくことがあります。
これは、成長するにつれて余計な情報や思考が脳の機能を消費してしまうからです。
3.自信過剰型
感性に頼り過ぎて、理論的思考の訓練をしないまま大人になってしまった。
幼少のころにとても知能指数の高かった子でも、
感性だけに頼って論理的思考を訓練しないと、その才能を退化させてしまいます。
受験に限って言えば、自信過剰型が非常に危険なパターンです。
特に、小さいころから国語が得意な生徒は要注意です。
この生徒たちは、国語を感性だけで解いています。これは素晴らしい能力です。
しかし、この手の生徒に限って、論説文や随筆文の読解が苦手なことが珍しくありません。
論説文や随筆文は非常に論理的に書かれた文章です。
読み手に誤解を与えることなく、自分の考え方を正確に伝えるための工夫がされています。
ですから、読み手は、そのルールを十分理解して文章の読解に臨むべきなのです。
中学生まで国語が得意だった生徒が、入試で失敗する最も典型的なパターンは、
幼いころから良く読書をしていて、感性だけでなんとなく良い点数が取れていたパターンです。
入試問題では、答えが一つに限定されなければいけません。
読む人によって意見が分かれるような文章を出題することはありません。
明確なルールさえマスターすれば、必然的にただ一つの解答にたどり着くように作成されています。
それが入試の国語です。
ですが、中学校や高校の授業では、このような教え方はしません。
文章に対する感想や考え方を、一つに決めつけることなく情操的なアプローチをします。
これは、正しい教育方法だと思いますが、ここに重大な落とし穴があります。
一般的に学校で生徒に感想や意見を求めるアプローチは、
筆者の言いたいことを正確に読み取るアプローチを行ってからなされるべきです。
入試問題の解法とは、
まさに、『筆者の言いたいことを正確に読み取るアプローチ』です。
そうです。
筆者の言いたいことを正確に読み取るアプローチを行ってから、
生徒たちに感想や意見を求めるアプローチを正しく行うことで、
生徒たちは才能を開花させて、素晴らしい大人になっていくのです。